居るようで居ない
久しぶりに会った知り合いに言われたこの言葉は、これまでの自分の生き方をとても良く表している気がする。
オランダに住み始めて二年半ほどが過ぎ、そろそろ日本に帰ってみるかというタイミングで奇跡的に同窓会が開かれることに。
今のところ日本に本帰国する予定はないのでこれを逃したら次はもうないなと思い、約十年ぶりに学生時代の同級生たちと会ってきた。
就職してすぐのことやら、近況やら将来の計画やら、なにしろ十年という長い空白の期間があるので、それぞれがそれぞれに対して抱えきれないほどの話したいことと聞きたいことがあったのだと思われ、それらが熱気というかオーラというかそういう類のものとして常にそこらじゅうを埋めつくしていて異様な会だった(良い意味で)。
あらゆる話題が飛び交う中、当時の話になったときに誰かが「⚪︎⚪︎(筆者)はみんなの中で、その一員としてちゃんと上手くやっていたよね」と言った。するとその知り合いが「いや、⚪︎⚪︎は、そこに居るようで居ないよね」と返したのだ。
その場にいた人はみんな、何が起きたか分からないような、こいつは何言ってるのだ顔をしていたけど、でも彼の発言は見事に的中していた。
ボクは昔から、自分の居場所みたいなものは無いと思って生きてきました。
安心できるところ、帰ってくるところ、落ち着けるところ、自分の居場所と言えば一般にこのようなところがイメージされると思います。これらは、実際そこに居ることができる、という物理的な場所として機能していることはもちろん、でもそれ以上に、落ち着く、安らぐ、心地良いみたいな【ホーム感】を人に与えてくれるという意味で、人の精神と強く結びついているものです。
ただ、ボクにはその感覚が分かりません。
いつもひとりぼっちで誰とも仲良くしてこなかったというわけではありません。仲の良い人同士でしばらく時間を過ごしているうちに自然と出来るいつものグループ、みたいな場所にいたこともあります。今やもう死語ですが、いわゆる【いつメン】というやつです。
かといって、いつも同じ、いつも一緒、に固執していたわけでもないので、そのグループ以外の人とも関わっていたし、親友と呼べるような人もいる。
むしろ周りの人からは、何かに属しその一員として自分の居場所を持っている人に見えていたと思います。もっと言えば、グループの中で割と重要な立ち位置にいて、そのことによって諸々を謳歌している人とすら思われていたかもしれません。
でも実際のところ、これまでに経験してきたあらゆるグループ-学校、部活動、アルバイト先、会社など-の中にあって、「自分はここの一員なんだ」と実感できていたことは一度もありません。
このことはもうかなり昔から気づいていて、疑問を感じたことも特に深く考えたこともありませんでした。なのにいつからか急に気になり出し、かといってすぐにその原因が見つかるわけでもなく、クエスチョンマークがじわじわと脳内を侵食する日々。
色々と考え、行き着いた答えは帰属意識。きっとボクは帰属意識がとても薄いのだと思います。というか、帰属意識というものが一体なんなのかよく分かっていないのだと思います。
帰属意識が理解できていない人に「自分はここの一員なんだ」などと実感できるはずがありません。ましてや、自分の居場所を確保することに必死になったり、自分の居場所が脅かされるかもしれないと不安になったりする気持ちはわかりようがありません。
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カーストという言葉と概念が日常に浸透した頃のこと。
「自分、カースト上位やんな?」とか「これまでいい感じの人生生きてきたやろ」などと言われたことがあります。
皆が皆ここまでストレートな言い方ではないにしろ、たいていの人からは同じような意味のことを言われてきました。要するにボクのことを人生謳歌系人間、俗に言う陽キャラ人間だと思っているのです。(今でも初対面の人からはほぼ100%そう思われる)
他人が自分をどう思うかということについて、その人との関わりが少ないほど自分が影響を与えることのできる部分は小さい。そして人は往々にして誰かの一部をまるでその人の全部かのように思ってしまう生き物なので、自分が人生謳歌系人間だと思われていることはこれまであまり気にしないよう努めてきました。
と同時に、自分について説明し、相手に本当の自分を理解して欲しい気持ちもありました。
でもこういう「お前はええよな」的な言葉を誰かに浴びせられたとき、その相手が自分にとって大切な存在ではないと判断した場合、「別になんと思われていようがどうでもいいか」という諦めを選んでしまうボクの悪い癖が出てきて、結局いつも曖昧な返事をしてしまいます。
てきとうに「あー」とか「んー」とか生返事をしているとむしろ話を濁したがっているように聞こえ、結果それは肯定ということで了解され、だから多分、これまで出会ってきた人の多くはボクのことを、なんだか良い感じに人生を謳歌してきた人と認識しているのだと思います。
結果、相手の誤解を晴らすことはほとんど叶いません。
でもぶっちゃけ、カーストとか心底どうでもいいし、上位がどうとか下位がどうとかもまるで興味がありません。それに、いい感じの人生とか言われてもなんの具体的なイメージも頭に浮かんできません。
なんなら、今初めてちゃんとカーストについて考えているくらいです。せっかくの機会だからとよくよく考えてみたのだけど、人の美醜が基準になっていたりすることもあって不快だ。何かしら理由をつけて人の存在価値に差をつけようとする姿勢も不快だ。何様なのだ。と、文句しか出てこない。
人を階層で見るという感覚がやっぱり理解不能で、どうしたって物語の中の話にのように思えてしまう。
なのでカーストについて言えば、その上位に存在することでもたらされる何かを謳歌してきたなんてことは無論なく、なんなら嫌悪すらしているというのが本音。
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でも、カーストについて気にしたり、自分は上位にいると思って優越感を感じたり、逆に下位であることに焦りや不安を感じたりするというのは、それはある意味【自分の居場所】というものを実感できているということ。
優越感や焦り、不安の感情を抱くということは、抱けるということは、前提として自分の居場所がどこかにあると理解していて、その上でそれがどこに位置しているかを気にしているということなのです。
そういう状態や感情がよく分かっておらず、物語の中の出来事みたいに思えてしまうのは、自分の居場所というものが無いからなのかなと思います。
心のどこかで、【ここではない】という感覚があるからなのだと思います。
過去に一度だけこの場所がそうなのかもしれないと思えたことがありました。でも結局そうはなりませんでした。
いろんなのことの、その一つ一つが些細な度合いで噛み合わずに全体が歪んでゆくみたいな、複雑な理由が重なりあってそうならなかったようにも思えるし、とても分かりやすくシンプルな理由でそうならなかったようにも思えます。
今考えると、何がどう転ぼうと当時はそのようにしかならなかったような気もします。結局のところ、起きてしまった過去です。その時はそうなる運命だったとしか言えません。
現実としてボクの中には【ここではない】という感覚がいまだに残ったままです。
居るには居るが、ただ居るだけで、その環境でなんの寄与もしていないし逆になんの害も与えてもいないような、ほとんど空気と言ってもよいくらいに居るけど居なかった自分。
どこにいても【ここではない】と感じている自分。
だから当然のことではあるのですが、これまでずっと、なんとなく地に足がついてないような、どこに行っても一人のような感覚を抱えていました。けれども、(超絶遅いし陳腐極まりないが)最近になってやっとこの感覚の正体は一体なんなのかということを理解したのです。
これまでずっと自分は【これ】とは程遠い人間だと思っていたし、周りの人が【これ】について悩んだりしているのを聞いて、そういうのってよく分からないなとすら思っていました。でもボクはむしろずっと【これ】を抱えていたわけです。
自分の人生至上一の大発見です。
なんだ、結局のところ、そうだったのかよ。
正体が分かったその瞬間、あまりにも単純で分かりやすい感情に思わず笑ってしまったし、今思うと、頑なに分からないと言い続けたり自分には起こり得ないものだと信じてきた様が非常にかっこわるく、そして情けない。
でも同時に納得してもいます。自分はどこにいても居ないということは、まあそうだよなと。
そして正体が分かった今、次に待っているのは、【これ】とどう向き合って生きていくかということ。
今の自分にある選択肢は、唯一の可能性を感じた過去の一面を取り戻そうとして郷愁にへばりつく、これまでのことは忘れ去ってなかったことのようにして新しい自分を作り上げていく、ぜんぶを受け止めた上でこれからのことを考えていく、この三つのどれかです。
ひとつめはなんか、粘っこくてねちねちしてて、ナメクジみたいですね。過去に個人的な事情で今後一切ナメクジを許さない宣言をしたことがあるし、彼らはボクの天敵と言っても良いのでこれはなしです。
ふたつめについて。過去に起きたいろいろなことの積み重ねが現在を作っているとするならば、後悔、恥、情けなさ、怒りなど自分を苦しめるものだけでなく、心躍り狂うくらい楽しい経験や幸せを感じた瞬間といった自分の人生を豊かにしてくれたもの、その全部があったから今の自分になっているということです。
「何もかもきれいさっぱり忘れました」というのはなんだか都合が良く、独りよがりに聞こえます。まあこれはあくまで自分の情緒の問題なので都合が良くて一体何が悪いんだとも思いますが。独りよがりだろうが、より良い状態になるのであればそれでも良いような気もします。誰にも迷惑をかけていないし。
でもそこに他者の存在はありません。他者の存在や気持ちをなかったことのようにして、自分だけ「心機一転、さあこれからが人生の本番でっせ」みたいなスッキリした顔と振る舞いで生きていく。これはあまりにも自己完結。
自分の領域に他者を介入させず、断ち切ることで楽になり、決まっていつも自己完結、もうこれはただの現実逃避だし、こんな奴が最終的に行き着くところなんて目に見えている。完全な孤立。しかも引きこもり。晩年のヒトラーみたいですね。誰の手にも負えません。
ということで、すべてをまるっと抱え込んだ上でこれから自分はどうしていきたいのかを考えていく。自分に残されたのはこのみっつめの道というわけです。
ひとつめとふたつめを選んだ方が、いろんな意味で自分が楽になるということは、なんとなく分かっています。でも、人生はままならないことであふれているので、しょうがない。
少なくとも今は、たとえ自分が苦しいとしてもこの道を選ぶしかないのです。
と、進んで行く方向はなんとなく見当がついたのですが、ここで大問題が。
ボクは、これまで見て見ないフリをしてきたせいで【これ】にまつわる色々なことを知りません。【これ】を抱えている自分というものに慣れていません。一人で解決した方がいいのか、人に頼った方がいいのかも分かりません。他のみんなはどうしているのかも分かりません。世の中の一体どれだけの人間が【これ】を抱えているのかも分かりません。
正直言って何をどうすればいいのか全く分かりません。だから、間違いだらけの向き合い方になるかもしれません。
唯一分かっているのは、とにかく生活をつづけていくしかないということ。
そうするうちにいつか【これ】が消える日が来るかもしれないし、消えないとしても【これ】とうまく向き合う方法を見つけるかもしれない。
そんな日が来ることを願いつつ、今のところは、一線超えて自暴自棄なんでもやりたい放題人間にならないようにちゃんと考えているだけマシかと、なんだか間違ってそうなわけの分からない鼓舞の仕方で自分を奮い立たせます。
さて、どうなることやら。
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幸せのためなら
いくらでもずる賢くいようよ
いつまで一人でいる気だよ
飽きないな
若気の至りか 気持ちの問題か
あとは抱き合って確かめて
飽きないな
若気の至りか どうでもいいことだ
これからの話をしよう
祝日、どこに行きたいとか
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