親友のことを「気の置けない人」と表すことがあるけれど、本当のところいちばん気を遣っているのだと思います。
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先日の日本帰国に伴い、久しぶりに親友と呼べる人たちに会いました。
みんなと過ごしていると、これまでの空白-オランダで生活していたときのこと-はなかったかのようになり、自分はずっと日本にいたのではないかと思えました。
もちろんそんなわけはなく、ボクは確かにオランダに行き、そこで二年半というそこそこ長い時間を過ごしましたが、そう錯覚してしまうほど、みんなとの再会から別れの間の全ては自然で、いつかの時と同じようにちょうど良くてぴったりでした。
みんなが変わってないというわけでもありません。新しい仕事を始めていたり、住むところやパートナーが変わっていたり、ちょっとだけ体が大きくなっちゃっていたりと、それぞれが仕事、人間関係、体重などいろんな面で変わっています。もちろん歳も取っています。
それなのに、みんなと会ったとき、どこかの場所に戻されるような感覚とともに、いつか抱いた親しみや好意を、いつかのままの種類と純度で感じているということに気づかされました。
この変わらなさみたいなものはどこから来るのか。
趣味や食べものなど、他人と自分の「好きなもの」が同じと分かると、人はわかりやすく急速に親密になれます。
でも今回のそれは、時間が経っても朽ちることがなく、会うたびに実感できる類の親しみや好意です。みんなとボクの間には、好きなものが同じ以上の何かがあります。
それは「嫌いなもの」が同じということかもしれません。道徳観とか正義感とかいったものをひっくるめた人間性が互いに近く「嫌いなもの」を似たように嫌っていると信じていることで、親しみと好意を超えた特別な感情を抱いているのだと思います。
ボクは、集団というものがあまり好きではありません。
何か話を始めようものなら揃いも揃ってその話を聞こうとしてきて、だから会話は一対多数という構図にならざるを得ず、大人数から注目を浴びることが苦手なボクは、演説じゃないんだからそんなにこっち見ないでくれる?と思ってしまいます。
とはいえこちらはもう話し始めてしまっているので途中で止めることもできない。かと言って大人数に向けた適当な話し方など知らないので、最初に話しかけた相手だけを見て話し続けます。
こちらに向けられているたくさんの顔を一瞥すらしないので、二人の会話にその他大勢が聞き耳を立てている、みたいなおかしい状況が生まれます。
とまあこれは、できるだけ目立ちたくないと思って生きてきた自分が、集団に対する苦手意識から場にそぐわない行動をしているだけで、集団はまったく悪くありません。ボクが集団に向いていないだけという、向き不向きの問題です。
その場に参加することを決めたのは自分なんだからもう少し頑張れよ、と自らを鼓舞し、集団という状況に馴染むための努力をしてみたこともありましたが、翌日に体調がすこぶる悪くなって熱が出たので、それ以来やめました。
ただボクは、このような苦手意識とは別に、道徳観や正義感に関わる理由で集団を明確に嫌ってもいます。
集団やその中の個人が、その場のノリや流れとかいったなんの重要性も持たないものにほだされて平気で人を傷つけるようなことをするからです。
「人を傷つけない」と「ノリや流れを壊さない」を天秤にかけたとき、後者を選んでしまうくだらなさ。
そういう場面に出くわすと、人としての信頼のできなさを感じ、彼らに対して持っていた好意やら尊敬やら、その他のなんであれとにかく一切の感情が消え失せてしまいます。
経験上、そういう人たちに限って仲間意識が強かったりするので集団でいることを好み、ただその仲間意識は死ぬほど小さな世界の中の死ぬほどくだらない基準に基づいた死ぬほど浅はかなものなので、ノリや流れに逆らう人のことを「つまらない」と言ったりします。「つまらない」のはそっちなのに。
こういうことについて親友たちがここまでの激しさで嫌っているかどうかは、正直分かりません。
でも、これまで重ねてきた会話の中で-それが道徳とか正義とは関係のない事についてだとしても-みんなの言葉の端々から感じ取れる匂いみたいな、感受性の質みたいなものは自分と近いと思えるのでした。
もう昔のことですが、どこからどうやってやって来たのか、身の内に過大な正義感を抱えていたボクには、みっともないからやめな?とその場のノリや流れをぶち壊していた時代もありました。
冷めている、格好つけんな、大人ぶんな、スカしてんじゃねえなど散々なことを言われましたが、お前がおかしいんだから直せ、と一歩も引かずに闘争を繰り返していました。
そんな自分を気に食わないと思う人がいるのは当然で、昔は喧嘩を売られてばかり。それでも、どれだけ理不尽な理由だろうが売られた喧嘩はすべて買い、陰口だの冷笑だのからかいだの、集団が生み出す悪意ある行為とぶつかることがあればそのすべてを死ぬ気でねじ伏せていました。その場がしらけて自分たちがつまんないと気づくことで変わってくれるかもしれないと、少しの期待を抱いて。
でも、真正面からぶつかり合うというのは、相手が誰であれ理由がなんであれかなりのエネルギーを使うし、こちらが消耗したところで結局彼らが変わることはなかったので、彼らに対する全行為と全感情は無駄じゃないか?と、段々と諦めの気持ちが大きくなっていきました。そしていつからか、そういう人たちを自分の世界から切り捨てるようになります。
そうすることで心が安定し、自分が楽になると気づいたのだと思います。
そうやって切り捨てる術を身につけたとき、自分のエネルギーには限りがあって、そこから生まれる誰かに対するやさしさや思いやりの総量にも限りがあるから、その「誰か」を選ぶ必要があるということにも気づきます。
そうしてボクは、これからはそのやさしさや思いやりはすべて、自分が信頼できる、大切だと思える人たちに使おうと決めました。
それ以降ボクは、薄情で酷に聞こえるかもしれないし実際にそうだとも分かっているけれど、戦争や貧困で苦しむ人々のより良い明日を願うよりも強くみんなのより良い明日を願っているし、みんなが傷つくようなことは何一つ起きて欲しくないと思って生きています。だから、みんなを傷つけるような人には、傷つけられた本人が引くほど怒るし、彼らを未来永劫憎みもします。
要するに、みんなにはいつのときでもハッピーでいて欲しいと思っているということです。
疲れているなら無理しなくていいし、お酒が苦手ならウーロン茶を飲んでいいし、体調が悪いのならドタキャンしてもいいし、忙しいなら返信しなくていいし、助手席で寝てたっていい。
みんなが嫌な気持ちになるようなことをしないように最大限のエネルギーで細心の注意を払っている。そういう意味ではやっぱり、「気の置けない人」に対してはいちばん気を遣っているのだと思います。
逆に、聞いたことのない映画だって知らないバンドのライブだって、みんなが楽しいと思うのであれば一緒に観たいのです。これは、好きな人の楽しいと思うものは自分も楽しめるだろうと分かりきっているから。そして-当たり前すぎて改めて言うことでもないですが-自分がいちばん幸せでいれる時というのは、みんなの楽しんでいる姿を見ている時だからです。
人は無数に間違いを犯すし、反省したとしてもその上でまた間違ったりするし、完璧なんてもってのほか、不完全すぎます。だから、充分すぎるほどの気を遣ってやっと間に合うのかもしれず、そう考えると、このくらいの心構えでちょうど良いのだと思います。
どうせ足りないので、考えすぎだと思われるくらいでちょうど良いのだと思います。
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人間性が似ている、仮に誰かに対してこんなことを思えるのだとしたら、それは感謝すべきことなのかもしれません。
人はいろんなものに毒される可能性があって、そのせいで歪んでしまったり退化したり、逆に成長することによっても簡単に変わってしまうことがあるから、人間性が変わらないままであるのはとんでもなく難しいことだと思います。
さらに言うと、自分がその人間性を素敵だと思えるのかどうかというのも人の数だけその基準があって、もちろん自分の基準も変わっていく可能性だってあります。
だから、相変わらず尊敬でき、好きなままだなと思わせてくれる人たちと自分の間には何京分の一くらいの確率のぴったり度合い存在しているということかもしれず、それはもう奇跡と言っていいんじゃないかと思います。
そんなみんなに対して、ありがとう以上のありがとう、という気持ちです。
まあ、直接言えよという話なので、今回の再会を機に面と向かって言ったこともあります。
自分としては割と勇気を出し、十年近く前に起きて以来一度も話題に出したことのなかったある出来事を持ち出して「あのときのあれがあったから今も仲良くできてると思うんだよね、だから感謝してる」と伝えました。
「え、(感謝するとか)当たり前でしょ」だそうです。
それでこそ、ですね。
頭が上がりません、最高の返事です。今後ともよろしくお願いいたします。
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