2024年の末、紅白歌合戦の曲目が発表されたとき、星野源が歌う曲についてごちゃごちゃとなり、炎上し、その結果曲を変更するということが起きました。
元々予定されていたのは『地獄でなぜ悪い』という曲で、園子温という人物が同名の映画を監督しています。映画の主演は星野源で、『地獄でなぜ悪い』はエンディング曲として使われています。
ちなみに、「ごちゃごちゃ」の原因となったのは園子温という人物です。正確に言えば、彼が起こしたとされている性加害事件。
数年前、映像業界における性加害事件に世間の目が向けられ、被害者の告白によって事件の内容や関わった人物などが明るみになったとき、彼の名前も当事者(性加害者)の一人として報道されました。
そして今回、SNSやネット上では「性加害者が関わっている曲を紅白で流すのはいかがなものか。二次加害を生みかねない」という反対意見が生まれ、このことについて皆々が好き勝手に発言し、結果的に紅白歌合戦では『ばらばら』という曲が歌われることになりました。
よくもまあみんな、匿名で顔の見えない環境下だとあけすけに、遠慮もへったくれもなく反対だの否定だのといった持論をかますよな
これが、曲目発表から変更に至るまでの一連の流れを知り、真っ先に思ったことです。
匿名で身バレがないことによる安心感からなのか、-生身の人間と対峙しないという意味で-非直接的なコミュニケーションの場では気持ちが大きくなるのか、ひとたび何か事件的なことが起きるとこの頃の世間は言いたい放題です。
ここで疑問なのは、事あるごとに騒ぎ立てたり、議論に参加したり、とやかく言っている人たちって本当にその対象と関係あるのか?ということ。
今回の件で言えば、対象となったのは『地獄でなぜ悪い』という曲。
星野源という、多くの人にとって全く縁のない芸能という世界で生きる人、言ってしまえば-心理的にはそこらへんの他人よりもさらに遠くに存在している-赤の他人が、これまた自分が直接関わることのないであろう紅白歌合戦という、テレビ番組の中でもいろんな意味で特別な舞台で歌う曲。
正直、どんな曲が歌われようが多くの人にとって直接的な関係はないように思えます。なので、よくそんなことにエネルギーと時間を使えるな、みんな暇だな、とも思いました。
ただこれは、ネット上での論争や炎上、そこに積極的に参加するような人たちに対する個人的な嫌悪感が大いに反映されています。普段ネットと一定の距離を置いているボクから反射的に出た感情のようなものです。
これまでなら、人間って不思議だな、という結論に至りそれ以上考えることをやめていました。でも今回は、もう少しちゃんと考えてみようと思います。
そもそも、意見を発信したり、そのことによって議論が生まれたりすること自体は悪いことではありません。これほどまでにコミュニケーションを言語に頼っている人間にとってはむしろ必要なことだと思います。
「発信」という観点では、近年、平等意識の高まりからか、不平等さに苦しんできた人たち、権力に虐げられてきた人たちによる「声をあげる」という行為が増えているように感じます。
それに伴い、その主張を支持する層も「発信」しますし、反対派も「発信」します。そうやって賛と否が生まれ、議論へと発展していきます。
それ以外にも、スキャンダル、不倫、汚職など、メディアで採りあげられるほとんどすべての事に対して、誰かしらが何かしらの意見を発信し、上記と同じ構造(賛と否の両陣の間)で議論が生まれます。
日本全体が、自分の意見や考えをより積極的に示していこう、というムードに包まれている気がします。ハラスメントの内容が細分化したことや、コンプライアンスが厳しくなったという事実は、まさにこのムードを受けて起きた変化だと思います。
ただ、こういったムーブメントの台頭や社会の変化を理解した上で、湧いてくる疑問もあります。
今回の件に関して、一体どれだけの人が真剣に二次加害について考え、性被害者のことを思って(被害者を二次加害から守ろうと思って)コメントしたのだろうか。二次加害とは何なのか、そもそもそれを理解していた人はどのくらいいたのだろうか。
恥ずかしながらボクは二次加害の意味を知らず、この記事を書くにあたって調べ、二次加害とは「被害者が更なる被害に遭って傷つくこと」だと知りました。
例えば、性被害に遭った人が、そのことを周囲に告白した際に受ける対応や言葉によってさらに傷つけられてしまうことです。
◎「それ本当?」、「まだマシな方だよ」、「早く忘れた方がいい」といった周りからの言葉
◎相談した相手が第三者に相談内容を漏洩する
◎本人やその被害についてSNS上で飛び交う勝手な憶測や議論など
このような、被害者の傷をえぐることを二次加害と言います。※二次被害、セカンドハラスメントとも言う
話を『地獄でなぜ悪い』と園子温に戻すと、今回は、「性被害に遭った人たちの二次加害につながりかねないから」という理由で、園子温が監督の映画と同名の『地獄でなぜ悪い』を歌うことに反対意見が出たわけです。
性被害を経験した人たちは、シンプルに園子温という人物を「性加害者」のうちの一人として認識するかもしれず、となると一個人としての彼の来歴や功績などはもはやどうでもよく、園子温=性加害者という図式のもと、-自分が何か直接的な害を受けたわけではないとしても-彼を目にするだけで吐き気がするほどの嫌悪感を抱く人もいると思います。
これは、昔学校でカースト上位の子たちからいじめを受けていた人が、その後の人生で、カースト上位に存在している人やいわゆる陽キャと言われる人に対して嫌悪感やコンプレックスを抱くのと同じ原理かもしれません。
どちらの場合も、自分が受けた被害と関係するものによって心がネガティブな反応を起こします。仮にそれが自分の被害と直接結びついていないとしてもです。心の傷は一生消えない言いますが、まさにこういうことなのだと思います。
二次加害は、「加害者を擁護するような考えや意見」を見聞きした時にも起こるそうなので、そう考えると、紅白で『地獄でなぜ悪い』を歌うことが園子温を擁護しているようにも感じられるかもしれず、二次加害へとつながるというのは理解できます。
と、ここまで書いて、やっぱり思うこと。
当時反対した人たちって本当にみんなこういうことまで考えて反対したんだろうか。本当に被害者のことを思って、心から守りたいと思って反対したんだろうか。
ボクにその答えは分かりません。でも、仮にそうだったとして、じゃあ、その先のことはどう考えていたのだろう。
今回、なぜボクが「反対した人たち」にこんなにもしつこく触れるのか。その理由は、あなたたちも加害者かもしれないですよ、と思ったからです。
加害者という言葉は大袈裟に聞こえますが、要は、あなたの言葉で誰かが傷ついているかもしれませんよ、それが一般的には正義と解釈されたとしても、と言いたいのです。
自分の中の正義は他人にとっての悪、みたいなことって往々にしてあるし、これまでを振り返ると、自分も大いに反省しなければなりません。だからこそ思うのが、自分が発信した意見や、その結果生まれる議論や出来事についても考えることが大切だということ。
だって、世間がごちゃついて、その結果として別の曲を歌わなければならなくなった星野源の気持ちは誰が汲み取ってあげればいいんでしょうか。
誰も汲み取ってあげることはできません。彼にできるのは別の曲を歌うということだけです。2024年の紅白歌合戦という二度と訪れない舞台で経験したあの数分を、一生抱えて生きていくことになります。自分は全く事件に関わっていないのに。
後に誰かがどれだけ必死にフォローしようが、『地獄でなぜ悪い』を歌えなかった紅白歌合戦、という記憶は彼の中から消えることはなく、その後の人生のどんな瞬間にでもすぐに蘇ることができ、そのたび彼を悩ませるかもしれません。
じゃあどうすればよかったのか、という正解を求めて旅を始めてしまったら最後、ズンズン沼の底に沈んでいく気しかしません。なのでその旅には出かけません。
そもそも、何かのモノゴトに対して正解なんてものはないように思えます。途方もないくらい大勢の人が生きているわけで、それぞれが違っていて、そのそれぞれがこれまで独自に養ってきたフィルターを通して一つのモノゴトについて考えたとき、はたして「正解」なんてものが存在するんだろうか。
厳密に言えば「正解」は存在し得るのでしょうが、それは唯一単体のものではなく、人の数だけ存在します。誰かの正解は他の誰かの不正解、という塩梅です。
なので、できることと言えば、自分のことも周りのことも一所懸命に考えること、自分を省みること、省みたら次に活かすこと。少なくとも今のボクの人間レベルではこの三つです。
でも、少なくともこのくらいのことを皆がしないと、誰も彼もが”好き勝手に”己の主張を世間や個人にぶん投げ、救われる人が増えるのと同じくらい傷つく人も増え、結果的に荒んだ世界になりそうな気がします。
頻繁に起こる炎上やバッシングを恐れて発信を控えてしまうという、本末転倒な結果にもなりそうです。
ボクとしては、自我を超越して悟りを開いたブッダのようになるその日まで、一京回くらいつまずくかとは思いますが、千里の道も一歩から、というわけで、めげずに邁進していく所存です。
…………。
はて、さっきまで、発信の意義と危うさとは、正義とは、みたいななんだか深い洞察が得られそうな話をしていたはずなんだが。気づけば将来ブッダ宣言で締めくくろうとしているではないか。摩訶不思議。一体なぜなんだろう。
「無駄だ ここは元から楽しい地獄だ 生まれ落ちた時から出口はないんだ」
「ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ」
『地獄でなぜ悪い』作詞:星野源 作曲:星野源
これはボクが、この世の地獄さにすべてを諦めかけつつも、まだ進もうとしている意志を我が身の内に見つけたからかもしれません。
初めから出口がないのであれば、いっそ楽しむことに決めた方が良いのだ。
と、自信を持って言える日がいつか来たら、万々歳ですね。
-アリッタケの自戒の念を込めて-
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